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第1回:プロローグ~コロナ禍の中で~

2020年10月6日



“えきがくしゃ” 青木コトナリ 連載コラム 「疫学と算盤(ソロバン)」 第1回:プロローグ~コロナ禍の中で~

東京アラート。多くの人にとっては、そういえばそんなワードもあったかなと忘れかけていたことだろうし、東京にあまり縁のない人であればそもそも聞き及んでもいないかもしれない。突如として新型コロナウィルスによる巣ごもり生活が始まったのは、私がその東京に引っ越してきてから間もないことであった。

最近ではGoToトラベルに東京都を含めることにするだとか、外国との入出国を緩和するだとか、国内ではようやく巣ごもり生活が物理的にも一段落しつつあるのだが、それでもまだ旅行だとか外食だとかをする際にはにわか東京都民としてどうにも後ろめたい心持ちがする。


東京アラートが解除されて間もない頃であろうか、未だ近所の様子もよくわからないまま、とりあえず自宅から最も近いと思われる、ネット情報では評判のよい天丼屋さんにコソコソと出かけてみた。昔ながらのお店のようで、カウンターしかない店作りはいかにも老舗の雰囲気を漂わせている。板前さんとその馴染みらしいお客さんとの会話に耳を傾けてみると、なんと、今週でお店を閉めるらしい。


「助成金が毎月出ると良いのだけど・・・」と、女将さんらしい人が笑いながらお話をされている様子はかえって切なく、初めて訪れた私がその会話に参加することもはばかられ、出された天丼に集中するかのように顔を上げずにただ食べ続けていた。


報道によると新型コロナによる国内の失業者は9月末時点で6万人を超えるという。仕事をするということには経済的なことばかりではなく、ときにその人の人生そのものであったり、心を通わせる人たちが語り合う場であったりと、もっと多くの意味合いがあるものである。新規の罹患者や死亡者数と共に、多くの悲劇の中で今、私たちは時を過ごしている。


疫学という学問領域について皆さんはどの程度、ご存じだろうか。私は縁あって会社のお仕事としてだけではなく、疫学関連の活動を通じて製薬業界や関連する医療データの会社さん、アカデミアの先生方らと企業活動の枠組みを超えてご一緒させて頂く機会も多い。

疫学の仕事を始めた頃は、PCやワードプロセッサーで「えきがく」と入力しても「疫学」という選択肢はなく「易学」、つまり占いの方の変換しか出来ないのが当たり前で、肝心のEpidemiology、疫学の方は一般には馴染みのない、少なくとも日本国内においてはニッチな学問領域であった。

それがどうだろう、このコロナ禍の折、メディアでも疫学者は度々登場し、望むと望まざるとに関わらず、「疫学」なる学問領域はそれなりの社会的認知が進んできた様子である。新型コロナによる被害が甚大な中で、長いこと疫学なる学問領域の社会的認知向上に関わる活動をしている私にとっては、思いがけずそれが加速していることについては複雑な思いで受け止めてもいる。

ただ、しかしながらどうなのだろう、東京アラートが発出された頃は確かにその疫学専門家なる肩書きの人が有識者ということで、国全体としていわば無批判にその意見を尊重していたようなところがあったが、ここにきてその疫学専門家に対する認識に少し変化が現れている様子がうかがえる。あまりにも感染予防にばかり意識が向いてしまって、政策としての社会活動停止や経済活動停止によるマイナス面を軽視しすぎているのではないかという論調である。


確かに、有識者会議なる会議体に感染のリスクをとにかく最小限にすべきという人ばかりというのではこれは大いに問題であり、例えば学校が休校になることによる学力低下の影響や、付随して病院勤務者がそれによって仕事を休まなければならない人が何人と想定されるのか、冒頭に述べたようにお店をたたまなければならなくなるのはどれだけなのかといった予測値なども合わせて、政策決定は多角的な視点から判断しなければならない。

その意味において感染拡大や死亡者数を適切に推察できる専門家に加え、社会活動や経済活動停止の影響を適切に推察できる専門家の双方があってこその有識者会議で無ければならないのは確かである。ただし、この前者が疫学専門家、後者が経済専門家という受け止め方をするのは明らかに間違っている。少なくとも私の知る疫学専門家というのは感染拡大の防止と社会や経済活動の停止による影響の双方を適切に予測し、そのうえでもっとも合理的と考える方法論を提案できる専門家に他ならないのである。


では果たして国内におけるその疫学専門家なる人たちが真にその感染拡大の防止と、社会・経済活動との折り合いについて合理的な意思決定をしていたのかという点については一旦保留し、広く世界的にみてもっとも疫学専門家の意見が反映された対策をとった国はどこだろうかといえば、これはスウェーデンであろうということに異論のある人は少ないと思われる。

その意味において私はスウェーデンが具体的にとった対策についてということではなく、国家として疫学専門家の発言が尊重され、しかも政策として実施されたという点において、日本にとっても大変学ぶべきことが多いと考えている。

具体的な政策を簡単にいえば他国のように都市封鎖(ロックダウン)をしていないということが知られているのだが、この点だけについていえば、例えば新型コロナなど風邪に過ぎぬと大統領が発言したブラジルもそうであるし、市民活動の緩さということでいうならば日本はスウェーデンよりもさらに緩い政策であったとみる向きもある。


その意味で学ぶべきは具体的政策そのものではない。何より重要なのは国民に対してどのような目的で新型コロナに対峙するのかを明確にしたうえで、その目的に沿った合理的な政策を打ち出したというプロセスの点にある。今や時の人となったスウェーデンの疫学専門家、テグネル博士(Nils Anders Tegnell)は新型コロナ対策の目標を(社会活動・経済活動をどうにか維持しながらの)緩やかな流行、要するに医療機関が崩壊しないレベルの維持としている。



この点についていえば特に日本の政策と大きな違いが無いようにも思えるのだが、当時はヨーロッパ諸国の多くが都市封鎖策をとったこともあり、国内外から「壮大な社会実験」と皮肉られもしている。しかしながら博士は今でも一貫して都市封鎖策には強硬に反対している。その証拠に、というわけでもないのだが、極端な移動制限による家庭内暴力、孤独、大量の失業者発生リスクを踏まえた上で「まるで世界が狂ってしまったかのようだ」とラジオ番組で発言したそうである(*1)。参考までにスウェーデン公衆衛生局のサイトで記載のある、具体的にスウェーデンがとった政策を紹介しよう(*2)。

  • 伝染病法の改正に集会やショッピングセンター等の一時的閉鎖権限等を追加

  • お互いに距離を保ち、不要不急でない旅行を控えることに責任を持つこと

  • 薬局では3ヶ月を超える医薬品を売らないこと

  • 全ての高齢者介護施設への訪問原則禁止

  • 感染者識別検査および免疫獲得確認検査の実施

  • 50人以上の集会・イベントの開催禁止(違反者は罰金または懲役の可能性)

  • レストラン等、食事の際のテーブル配置、飲食時は着席のこと

恐らく、これでもまだ「この一体、どこがスウェーデンはすごいの?」と疑問を持たれた方もいらっしゃると思われる。プロセスの秀逸については遠く離れた日本にいたところではなかなか計り知ることが出来そうにないのだが、たまたまネット上で見つけたスウェーデン在住で翻訳家・教師として働かれている日本人の方による寄稿を見つけることが出来たのでこれが何よりリアリティーのある参考情報になりそうである (*3)。 曰く、何故に各国が都市封鎖に踏み切る中で学校を休校することもせず、徹底して注意喚起で乗り切ることを国民に承知してもらうためにとった政策や勘所が整理されている。

  • 情報の透明性:毎日定時での省庁合同記者会見と充実した質疑応答の時間

  • 科学的根拠:はぐらかすことはせず即答出来ないものは折り返して回答

  • 失敗を認める:わからないことはわからないと言い、安易な推測をしない

  • ファクトチェック(正しい情報を見極める)態度が徹底されている国民性

さて、言うは易しである。疫学専門の視点に則った意思決定を、仮に他国とは全く異なるアプローチをとった場合、日本では何が起きるだろうか。仮にテグネル博士が日本に在籍していたとして、政策を厳しくしても緩めても、今の日本における国民全体の科学的視点の欠落を前に徹底して“懲らしめられる”に違いない。その意味においてスウェーデンが優れているのは、決してテグネル博士一個人ということでは全くなく、その政策提言を国策として実装する政府や、それを了解できる、疫学あるいはその基礎となる科学的視点を多くの国民が所有しているからではないだろうかと思われ、故に社会システムそのものが優れているといえそうである。


今回、コラムのお話を頂き、もし私のような未熟な疫学者の端くれが社会にとって少しでもお役にたてることがあるとすればそれは疫学的視点とは一体どういったものなのか、あるいはその前段としてそもそも「科学的とは何か」といった、日本全体として未熟で、故に適切な科学者が、科学的立場の人が不適切に追い詰められることが無くなるためにどうにか貢献できないだろうか、そんな思いでお引き受けすることにした。 お断りしておきたいのは、日本には私のような未熟者ではない疫学者はたくさんいらっしゃるということである。私が出来ることと言えば、むしろその未熟度であり(胸を張っていうようなことではないのだが・・・)、「会社勤めをしながらの疫学に関わる活動をしている」という点において、決して大先生では出来ないであろう、背伸びをしないテイストをちりばめることくらいだろう。日頃の箸休めのような位置づけでお付き合い頂けたら何よりである。 ところで、「あれ、スウェーデンの疫学者といえば、自身の政策が間違っていたという反省の言葉を言っていなかったっけ?」と思われた人もいるかもしれない。確かにテグネル博士は「我々の政策については大いに反省の余地がある」なる発言をされたそうであるが、これは日本で6月頃に一斉に報道された、あたかも都市封鎖をしていれば被害をもっと抑えられたかのようなニュアンスでは無い。あくまで都市封鎖等の社会活動や経済活動の強固な停止には反対したうえで、新型コロナの所作、つまりその毒性や有効な防止策などが今のように明らかになってきた中で、「もしもの世界」としてこうした情報が当初に知り得ていたのであれば、実際にとった政策よりも、よりよい政策はあり得たというお話である。 ここでもまた日本の課題が垣間見られるといえるだろう。日本のマスメディアは往々にして商業主義に行き過ぎている感があり、読み手の期待、つまり「スウェーデンの疫学者が都市封鎖をしなかったことを後悔している」図式を演出することが最も興味を引きそうということになれば、博士の発言の本質を伝えねば、などという科学的正義感など簡単に吹っ飛んでしまう。もちろん本コラムを始め文章というのは読む人があってこそのものなのではあるが、これではマスメディアの本懐、魂まで抜かれてしまっているといえるのではないだろうか。


さて、コラムを書き進めながら冒頭の天丼屋で食べた天丼の味を思い出そうとするのだが、甘口だったか辛口だったか、

そもそも具材は何だったのか、さっぱり思い出せない。そういえばその時、「もし美味し過ぎたらどうしよう」と心配していたことならば思い出せる。不味い天丼は勘弁してほしいが、一方でもう二度と食べることが出来ないのであれば美味しすぎても困る。そんなことを妄想していたのであって、お店側にとって重大な局面に立ち会ったとしても私はやはり自分中心、人の痛みの本質がわからない人間である。


(了) 第2回につづく


*1:Bloomberg HPより2020.9.28.取得 https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2020-06-24/QCFT4GDWX2PZ01 *2:スウェーデン公衆衛生局HPより2020.9.28.取得 https://www.government.se/articles/2020/04/s-decisions-and-guidelines-in-the-ministry-of-health-and-social-affairs-policy-areas-to-limit-the-spread-of-the-covid-19-virusny-sida/ *3:Benesse社サイト「たまひよ」より2020.9.29.取得 https://st.benesse.ne.jp/ikuji/content/?id=71226

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