2021年2月12日
“えきがくしゃ” 青木コトナリ 連載コラム
「疫学と算盤(ソロバン)」 第5回:クスリの科学(2)クスリと感染症
スペシウム光線 「ウルトラマンはどうして最初からスペシウム光線を使わないのだろう。」 こんな記事を新聞のスポーツ欄で読んだのだが、そうか、”スペシウム光線”は説明しなくても社会的に認知されているのかという、コンテンツとは別のところで驚いたりしている。 そもそも私が子供の頃のヒーローであったウルトラマンシリーズが未だ現役であることにも驚くのだが(仮面ライダーシリーズやレンジャー戦隊シリーズも然り)、ウルトラマンにとって怪獣をほぼ確実に倒すことの出来る、腕から発射されるスペシウム光線はウルトラマンが地球上に居ることの出来る3分という時間の、大抵はギリギリの時間帯で発射される。 となると確かにその2分半ほどのレスリングのような格闘は無駄にも思えるのだが、当該の記事は「土壇場にならなければ発射できない」説を唱え、ピンチになるまではあまりよい投球が出来ないプロ野球のクローザー投手とそれをダブらせた考察(?)であった。 現状のウルトラマンシリーズの作品をとやかく言うつもりは無いのだが、当時の円谷プロのウルトラマンシリーズに対する情熱は驚きに値するものである。先のスペシウム光線は幾つもの点の集まりで描写されるのだがこれが全て毎回手書きであったとか、飛行機(オブジェ)のピアノ線が視聴者に気づきにくいように飛行機を逆さに吊したうえで映像を逆さに映したりといった手の懲りようであったらしい。
特にシリーズの中でもファンの間で絶賛されているのが「ウルトラセブン」(全49話)であり、その前作「ウルトラマン」人気で得た資金をふんだんに使って制作されたこの作品は独創的な怪獣や宇宙人のフォルム、湖や夜間といったシチュエーションの多様さ、テーマの哲学性など完成度が高く、未だ多くのファンを惹きつけてやまない。
前回はクスリの陰と陽でみた場合、どうにも陰、ダーティーな部分が強調されすぎたような気がしている。確かにクスリはヒトの身体に反応するものでありヒトの身体が多様である以上、仮に99人には有益であっても1人には毒でしかない、という悲しさがある。 それでもなお私が製薬企業で勤めているところの拠り所でもある、そのクスリが私たち人類にもたらすもの、これまでもたらしてきたものは偉大であ り、今回はそれをどうにかお伝えしたい。そこで登場するクスリの世界のスーパーヒーローはペニシリンである。 ミクロの目の発明 ペニシリンの登場が医療の転機となったことは医療や医薬品に関わる人の恐らくは共通認識である。一方で「感染症って何?」「ウィルスって細菌なの?」といった疑問のある人にその凄さをお伝えするにはそもそも敵キャラである感染症が何ものなのか、ウィルスと細菌の違いは何なのかについても確認しておく必要があるだろう。折しもコロナ禍にあって、これはもはや人類全体の重大な関心事である。 そもそも電子顕微鏡等の技術が発明される前の時代にあって、人から人へ病状が伝播し、特に悪性のひどい場合には多くの人が亡くなっていく地獄絵図が一体何によってもたらされているのかは到底想像出来なかったに違いない。 その意味において感染症克服への大きな第一歩を刻んだのはクスリでも医療行為でもなく、「ミクロの目」を発明した眼鏡職人ヤンセン父子による顕微鏡の発明ともいえるだろう。 時代は1590年である。その後、生物学者のレーウェンフックが微生物を発見、パスツールによる「微生物は自然発生しない」ことを証明した有名なフラスコ実験へとバトンがつながる。
微生物が病気をもたらすことを証明したコッホの偉業も忘れてはならない。こうして微生物が感染症をもたらしていたという事実がわかるまでは伝染病なるものが悪魔の仕業とか、悪い空気によってもたらされたといった、現代ならばトンデモな仮説を明確には否定できるものでは無かったであろうし、予防策の第一選択として「神に祈る」ことは合理的にみえたことだろう。
ところでその感染症とは一体何かという定義であるが、これは微生物の存在が原因となる病気の総称である。微生物というのは文字通りごくごく小さいものであり、細菌は肉眼で見えるようなものではない。この分野で日本人研究者として恐らくもっとも有名なのは野口英世博士だと思われるのだが、彼が見た、とした微生物(黄熱菌)は当時の顕微技術では到底とらえることが出来なかったそうである。 野口博士は一体、何を見たのだろうか?一時はパスツールやコッホと同様にノーベル賞候補にもなった野口博士が何故に感染症研究の歴史の中では紹介されないのかについては福岡伸一先生の書籍「生物と無生物のあいだ」*をご一読頂きたい(野口博士のファンの方はショックを受けるのでお勧めしてよいかは心情的には迷うところでもあるのだが)。 ウィルスもまた細菌と同様、微生物の仲間に属する。興味深いのはウィルスと細菌との間に先の”生物と無生物のあいだ”が線引きされ、現代では細菌は生物であるがウィルスは生物ではないという分類、ということで決着がついている。つまりウィルスは「微生物であるが生物ではない」のだ。ウィルスの大きさは細菌類の5分の1程度と概算では言われるのだが、基準となる細菌の方は大きさも姿形も多様であり、特に小さめのマイコプラズマは医療分野では「ウィルスと細菌のあいだ」のような認識の方が近いかもしれない。 さらに真菌(カビ)や原虫なども微生物に分類され、病理、病気診断という実用科学の文脈でいえば節足動物など、病気をもたらす存在(病原)であれば肉眼で見えるものであっても病原微生物に分類することもある。なお、微生物が全て人類の敵、などということは全くの間違いであり、大腸菌など体中にはたくさんの種類の細菌が我々と共生しており、細菌無くして人類は生きることが出来ないということも今ではわかっている。その中で敵、となるのはごく一部の微生物である。 また、ご存じの通りウィルスも“子孫を増やす”動きをする。では何故、細菌とは違ってウィルスを生物として定義しないかといえば人間がそのように決めただけ、ともいえるだろう。確かに細菌や我々とは違ってその“子孫”なるものは当人の完全コピーであって、その意味では所作は異なる。ただ、私はたまに生々流転、生まれ変わり説が仮に正しいとしたら、前世がウィルスであったとか、ウィルスに生まれ変わるという説は支持されるかもしれない、というどうでもいいことを妄想する。はたまた、動物愛護協会は細菌まで愛護してウィルスは愛護しないのだろうか等々。線引きに今ひとつ納得がいっていないのだ。 感染症治療薬の系統 敵キャラである感染症およびその感染症の原因となる微生物、つまり病原微生物の紹介に次いでいよいよこれを退治する、我らがヒーロー、ペニシリンを紹介しようと思う。 ただ、その前に病原微生物と戦うクスリはペニシリンの前に幾つか開発されていたので触れておく必要があるだろう。ウルトラシリーズでいえばウルトラQ*ポジションになるだろうか、“病原微生物退治薬”の第一号はサルバルサンである。これは梅毒トレポネーマという細菌によってもたらされる梅毒の治療薬として用いられた。 敵キャラは強力であり、無治療、クスリの無い時代においての梅毒は陰部のしこりから始まり次いで全身のリンパ節が腫れた後に全身に発疹が現れる。やがて鼻が欠損するなどの重篤な症状を経て死に至るというものである。戦国武将の大谷吉継が大河ドラマでも白い布を顔にまとい関ヶ原の合戦に登場するが、これが梅毒に犯されていたからであるとも言われている。 サルバルサンを開発したドイツのエールリッヒは化学者であり、クスリを開発する随分と以前から一部の化学染料の特異性としてある細胞だけしか染色しない物質の存在を知っていた。これをヒントに鍵と鍵穴、つまり当該の細菌にのみ影響を及ぼし、他のものには影響を及ぼさない化合物があるという学説を提唱したのだが、これは現代においても創薬の重要な考え方の基礎になっている。 サルバルサンよりも少し早くに世に出た感染治療薬トリパンロートもこの着想によりエールリッヒが開発したもので、こちらは残念ながら動物には有効でもヒトには有効では無かったらしいが概念構想、着想の素晴らしさ自体は大いなる成果であったといえるだろう。なお、トリパンロートをエールリッヒと共同開発したのが志賀潔、サルバルサンの方の共同開発者は秦佐八郎というそれぞれ日本の医師である。 次に登場するのはドイツの医学博士ゲルハルト・ドーマクが効果を証明したサルファ剤である。これは結果的に「開発した」とは言えず「効果があることを示した」ものではあるが、死をもたらす連鎖球菌による重篤感染症に対して為す術なしであった当時の人類を救ったドーマク博士の功績は極めて大きい。 世界大戦の最中にあって、戦死者の何倍もの感染症死の多くをサルファ剤が救っている。前回紹介した“先代の”クスリ群とは違いサルファ剤の登場によって「クスリは気休めなどではなく、明らかにヒトの命を救い得るものだ」と認知させたという意味でも画期的であったといえるだろう。サルファ剤は今でもST合剤*という名で、特にHIVの治療などで用いられる現役選手である。また、ドーマク博士とその創薬研究を粘り強く何年にもわたって支援し続けたバイエル社は初めて近代的な創薬開発の流れを作ったという意味においても大きな功績がある。サルファ剤の成功が、様々な化合物を作ってはクスリに出来るかどうかチャレンジを繰り返すという、今や巨大な産業となった製薬産業の礎を作ったともいえよう。
そして20世紀最大の発明とまで賞賛されるペニシリンの登場と続く。ペニシリンが殺菌できる病原細菌はサルファ剤よりもはるかに多く、対して毒性の心配の方ははるかに小さい。生みの親は細菌学者アレクサンダー・フレミング。
博士は細菌の入ったシャーレに汚染物(コンタミネーション)として入ってしまった青カビの周りの細菌が全て死滅していることに驚き、このペニシリウム属に属する青カビからペニシリンが生まれたのである。時は1928年。ペニシリンは推計で少なく見積もっても数百万人の命を救ったであろうとされており、ペニシリンだけでアメリカ人の寿命を10年も引き延ばしたという推計値もある。昨年までであればピンとこない、寓話的な響きであったのかもしれないのだが、コロナ禍の今はこれが自分事のように思え、偉大な発明にあらためて感謝したい。
(了) 第6回につづく
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