第16回:適正価格とは何か
- Erwin Brunio
- 4月4日
- 読了時間: 12分
更新日:4月4日
2025年4月4日

2020年10月20日から連載開始した「疫学と算盤(そろばん)」は、昨年末、通算第36回を数え無事終了しました。36回分のコラムはご承知かと思いますが、当WEBサイトにてダウンロードできる電子書籍となっています。2024年1月からは、コラム続編の「続・疫学と算盤(ソロバン)」がスタートします。筆者・青木コトナリ氏のコラムとしては、日経BP総合研究所メディカル・ヘルスラボのWEBサイト連載の「医療DATA事始め」から数えて3代目となる新シリーズの開始です。装いを変え、しかし信条と信念はそのままに、“えきがくしゃ”青木コトナリ氏の新境地をお楽しみください。
(21世紀メディカル研究所・主席研究員 阪田英也)
“えきがくしゃ” 青木コトナリ氏の
「続・疫学と算盤(ソロバン)」(新シリーズ) 第16回:適正価格とは何か
憂鬱(ゆううつ)な春
また春が来てしまった。
雪国で生まれ育ったせいもあろうか、子供の頃は春が来ることが待ち遠しかった。歩きにくい雪道が春に近づくにつれて少しずつ雪が解け、やがて乾いたアスファルトが出てくる、あの感じが大好きだった。冬場ずっと立ち込めていた雨雲が去り、青空が顔をのぞかせる。春は一番大好きな季節だった。

ところが、このところは春の訪れが憂鬱である。花粉症のせいだ。目がかゆくて仕方がない。鼻水が出て、くしゃみが止まらない。この季節になると目薬、点鼻薬、飲み薬が欠かせない。家族全員が花粉症だ。
医療経済学分野では、病気による欠勤のことをアブセンティーズム(absenteeism)というのだが、その類義語にプレゼンティーズム(presenteeism)という言葉もある。仕事はしているものの病気のせいでその生産性が劣化する、というのがプレゼンティーズムである。花粉症の人では1日あたり2.8時間ほどもその生産性の劣化が試算されたりもしている。
因みにこの「医療経済学」、本来的には経済学・心理学・社会学・倫理学といった分野を含む高尚な学問なのであるが、日本では薬価の引き下げにしか使われていないと揶揄される。いわば「薬価引き下げ学」だ。これではあまりに勿体ない。
医療経済学のお話としてこれまで本コラムでは制度としての薬価算定の流れや概念を紹介してきたが、今回は花粉症の治療薬を例にとって適正価格の算出を試みてみたい。目のかゆみを抑える目薬はいくらが妥当なのか。症状を抑える飲み薬はいくらが妥当なのか。そもそも妥当な価格とは何なのだろうか、といった疑問は実際に計算してみることで理解が深まることだろう。
需要と供給の接点
学生時代、友人がひどい花粉症の症状で気の毒だったことを思い出すのだが、やがて私も発病するようになるとは当時は全く想像すらしなかったものである。自覚しだしたのは春先に目が痒くなり始めた頃だろうか。点眼薬を毎日使うことでどうにか凌いでいたものの、いつのまにか鼻水が止まらなくなってしまった。当時は今のように効く錠剤などは無く、手に入るようになり症状が治まったときは感動すら覚えたものである。
さて、その“感動”は一体いくらとするのが妥当なのか、という話である。適正価格を決めるというロジックは何も医薬品だけのお話ではないハズだ。ラーメン1杯であっても、自動車1台であっても、その価格設定は様々な論理や思想、心理が内包する。まずは一般論としてのモノやサービスの価格決定ロジックを整理しよう。
よく知られているのが社会科で履修する需要供給曲線だろう。需要、つまり欲しがる側と、供給、つまり提供する側の思惑が一致したところの価格が最適解という論理である。本コラムでもしばしば登場する“見えざる手”がこれを決めるというわけだ。価格弾力性なる概念があり、少しくらい値段を上げたり下げたりしたところで需要があまり変化しないものは価格弾力性が低い、という判断となる。一方で、ほんの少し価格を代えただけで極端に需要が変化することがあり、曲線の有り様がちょっと違うのだ。テイクアウト専門の近所の焼き鳥屋は7のつく日が全品10%オフなのだが、普段は混雑しないのに7のつく日は行列が出来る。焼き鳥の価格弾力性は高そうだ。
また、駄菓子の「うまい棒」などは海外からの旅行者も大量買いするくらい人気があるが、42年間もの長きにわたりその価格を10円にすえおいていたという企業努力には頭が下がる。さすがにこのところの原料費等の高騰により12円に変更となったのが2022年4月であるがファンはショックだったろう。「うまい棒なら1000本、買える」といった、うまい棒“基準”が、12円だと計算がややこしくて出来なくなってしまったのだから。

そのうえでうまい棒という商品にあっては、10円と11円との価格設定の間に価格“硬直性”とでも言おうか、深い溝があったといえる。実際のところ一旦「10円じゃなくなった」ことでその防波堤は決壊し、突如として高い価格弾力性に変貌を遂げる。15円への価格変更まではわずか2年半であった。
様々な価格の決定論
需要供給曲線の他にも価格を決めるロジックはいくつかある。原材料費に製造や輸送などの手間賃を加え、そこに利益分を加えるという価格設定もよく用いられる。因みに、薬価算定でこれを用いる場合、これは原価計算方式と呼称する。
代替品との比較、というのも購入する側にとって重要な視点だろう。普段購入している花粉症の薬が2000円だったとして、他の花粉症の薬が1000円だと聞いたら購入の判断は揺らぐ。因みに薬価算定で類薬との比較を用いる場合は類似薬効比較方式という。
全く別の価格を決定するロジックとしてオークション、という価格設定方式もご存知だろう。日本語で競り(せり)と呼称される通り、競い合うことでどんどん価格が上昇する。大リーグ、大谷選手が盗塁50と同シーズンで達成した記念の50号ホームランボールは6億6000万円で落札されたが、これもまた競り(せり)がその価格を釣り上げたのかもしれない。人は競りあうという心理が上乗せされると、価格の妥当性などお構いなしに、「ここまできて負けられない」と、価格の上昇は上振れする。冷静にはなれないのだ。もちろん、医薬品の価格決めにおいては公衆衛生としての“公共財”という側面があり、オークション方式は採用されない。
OTC類似薬
一般の商品やサービスの価格決定と、医療経済分野でのそれは少々、事情が異なってくる。その話に行く前に医薬品の分離とそれに関わるところのちょっとした混乱(?)が今あることにも触れておきたい。
毎年、処方している花粉症の薬を薬局で買おうとすると、同じ商品ラベルなのに薬剤師の説明を受けないと買えないものと、薬剤師さんの説明を受けなくても買えるものと2種類あることはご存知だろうか。只今はこうした、医薬品市場のちょっと不思議な分類と制度設計の話が国家レベルで審議されているのだ。
病院から処方箋を出してもらえなくても買える医薬品は市販薬といったり、あるいはOTC医薬品と言ったりする。OTCとはOver The Counter、つまり処方箋がなくても薬局やドラッグストアにてカウンター越しに買える、という意味である。他方、医師のOKがないと買えない薬は医療用医薬品と言ったり、「処方箋が必要」ということで処方箋薬などと呼称したりする。
OTC薬の中で薬剤師の説明が必要となるのは第二類医薬品に分類され、不要なのは第三種医薬品に分類される。説明不要な方が“真”のOTC薬ということでもないのだろうが、薬剤師の説明を必要とする方を「OTC類似薬」と呼称することもある。
この「OTC類似薬」というのも定義があいまいでややこしい。病院で診察してもらって処方箋を出してもらう医薬品の中でもOTC薬と類似しているとしてOTC類似薬と呼称するものもある。また、「スイッチOTC」なるくくりにて、処方箋薬と成分はとほぼ同じであるのに処方箋が不要な医薬品のことだけをOTC類似薬とすることもある。只今はこのOTC類似薬の全てを医療用医薬品とは別モノにしてはどうかという議論がなされている。
セルフメディケーション
OTC類似薬は現在7000種もあるという。処方箋の必要な医薬品であれば基本的に患者側は3割負担で済むのだが、そうでない場合は全額が患者(購入者)負担である。要するにこうした医薬品を3割負担ではなく患者(購入者)の全額負担にすれば国家的な課題である医療費が少し抑えられるというロジックである。もしこの制度に変更したとすると、概算では医療費が年額3200億円ほど“浮く”らしい。
当然のことながら医療者側は反対している。何故、「当然のこと」なのか。表向きには「最適な処方が選択されない可能性が生じてしまう」ということなのだが、本音なのかどうか疑わしくもある。むしろ、「病院に来る人が減るから」というのがその反対理由ではないかという見方が出来るというわけだ。私の周囲でも病院で花粉症の薬を出してもらった方が安いからという理由だけで毎年、病院で診察を受けている人がいる。
病院で出された薬がOTC類似薬ということで今後は全額自己負担となれば、病院にとって“顧客”でもあるこの人たちがわざわざ病院には来なくなるという訳だ。医療機関を受診する人が減ってしまうという政策決定は、ただでさえ病院経営がひっ迫しているという問題を抱えている中で、医療者としては辛いところだろう。
患者自身でどうにかしてよ、というお話は昨今「セルフメディケーション」などとちょっと気取った言葉で語られるのだが、これは要するに「あまり気安く病院に来ないで」という、“キャンペーン”用語でもある。その昔は患者の方が「どうも風邪を引いたみたいで」とか、「インフルエンザになったみたいです」などと言おうものなら、「シロウトが勝手に自分の病気を決めるな」と叱るような医師も多かった。「自分で花粉症だと思ったら病院には来ないでOTC薬や目薬、点鼻薬でどうにかしてね」ということであり、昔を知る私にとって、自らを診察せよという方向性には違和感が無くもない。
いのちの“値付け”
医療経済分野における薬の値段付けロジックは、ザックリ言えば命の“値付け”に基づいている。「ヒト(一人)の命は地球より重い」などと言ってしまっては、国家予算が持つハズもなく、どうにかして「ヒト(一人)が1年間、寿命を延ばす」価格を決めなければ薬の値段付けが、少なくとも医療経済分野では出来ないということである。
価格の話は後回しにするとして、医薬品の“値付け”をするロジックの一部を概説しよう。例えば、無治療ならばこの先ずっと声が出せないが、手術をしたならば99%、完治するものの1%は命を落とす。あなたはこの手術をしますか、しませんか、などと質問するのである。「声が出せない」というところを「寝たきり」とか「目が見えない」「味がわからない」などと置き換えて、それぞれの症状を値付けするというわけだ。質問される側にとっては気分が悪いものであり、不愉快なやり方とも言える。
この質問に対して例えばYesであったならば今度は「では98%は完治するものの、2%は命を落とすとしたら、この手術をしますか」といった風に数字を動かしながら質問をたたみかけることで、手術をする/しないの判断がちょうど拮抗するところを突き止める。仮に死亡する確率が15%だったとしても、完治(声が出せるようになる)する確率が85%ならば手術したい(が、死亡する確率が16%ならばこのまま声が出せない方を選ぶ)、となったとしよう。この場合、「声が出せない1年間の生存は、健全な1年間の生存を100%とした場合、85%しか“生きていない”と医療経済学ではみなすのである。繰り返しになるが、これは全くもって不愉快、嫌な“値付け”の仕方だ。
さて、こうして求められた「85%」は「85%生きていて、15%死んでいる状態」とでも言おうか。これを質調整生存年、Quality of Life(QOL)という。例えば「寝たきり」のQOLが「50%」、つまり「50%生きていて50%死んでいる」状態だとしよう。とある医薬品Aがその人の命を健全な状態で5年間の寿命を延ばす場合と、一方で医薬品Bの方は寝たきりにはなるが10年間、寿命を延ばすとしたならば、この医薬品Aと医薬品Bとは同じ価格にするのが”妥当“、というわけだ。
只今、日本の医療経済分野ではヒト1人、1年間の健全な生存を700万円とザックリ概算している。明確な根拠がある数字でもないし、この先またさし変わるかもしれない。なお、大前提として医療経済分野にあっては、老若男女、総理大臣でも死刑囚でも人の命は等価である。上述した「健全に5年、寿命を延ばす」医薬品治療は総額700万円×5年=3500万円と算出される。QOLが50%(0.5)の状態で10年、寿命を延ばす医薬品治療もまた700万円×0.5×10年=3500万円である。ご存知の通り日本ではこれを全額患者負担とはしておらず、そこに皆保険制度や高額療養費制度が関わってくる。
くすりの値段
こうしたロジックで様々な医薬品の「妥当な価格」も算出可能である。花粉症の「目がかゆく、鼻水が止まらず、くしゃみがよく出る」状態のQOLを例えば0.8として、それが3月下旬から5月上旬の2か月、続くとする。こうした花粉症症状を当該の2か月、完全に封じ込めて健康状態にしてくれる薬があるとしたら、「妥当な価格」は下記の計算となる。
700万円×(2か月/12か月)=167万円<完全な健康状態>
700万円×(2か月/12か月)×0.8=134万円<花粉症症状>
167万円―134万円=33万円
2か月トータルで33万円、1日当たりでは33万円÷60日=5500円となる。前述の通りこれが処方箋を必要とする医薬品とするならば患者の負担は5500円×3割負担の1800円ほどが1日当たりの“妥当な”薬価であり、OTC薬とするならば5500円を全額自己負担しなければならない、となる。
もちろんこれは机上の計算でしかない。実際には花粉症のOTC薬は1日あたり100円程度で売られている。こちらはむしろ原価計算方式や類似薬効方式での計算ロジックに近いと言えるだろう。
只今の日本では医療経済学が“輸入”されてまだ何年も経っていない。実際の医薬品の価格について発売当初は原価計算方式や類似薬効方式で定めたうえで、しばらく経った後に、こうしたQOL概念を基にした計算によってより“妥当な”薬価に改められる。皆保険制度や高額療養制度が“奏功”しているせいか、私たち国民は自己負担額がかなり低く抑えられている。逆説的にいえば、そうであるが故に医薬品の価格がどうだとか、こうした医療経済分野への興味関心のある人は国内ではまだ少ないと言えるのだろう。
おらが春
花粉症は辛いものの、桜が咲き始めるというのはやはり大歓迎だ。今年もどこに花見に行こうかと計画を練っている。また、花粉症と桜を天秤にかけると、春がそれほど辛くもなく思えてくる。
めでたさも中くらいなりおらが春(小林一茶)
一茶が花粉症のことを詠んだわけでもなかろうが、この句が妙にしっくりくるのである。
さて、花粉症によるプレゼンティーズム(仕事の質の劣化)を言い訳にしたいわけではないのだが、この季節はコラムの執筆にも少々、支障が出てきてしまう。元来、筆が遅いのにこの季節はさらに拍車が掛かるのだ。恐らく、本コラムをリリースする頃にはもう桜は散り始めていることだろう。面目ない。ハクション!
「続・疫学と算盤(ソロバン)」第16回おわり。第17回につづく