2024年8月26日
2020年10月20日から連載開始した「疫学と算盤(そろばん)」は、昨年末、通算第36回を数え無事終了しました。36回分のコラムはご承知かと思いますが、当WEBサイトにてダウンロードできる電子書籍となっています。2024年1月からは、コラム続編の「続・疫学と算盤(ソロバン)」がスタートします。筆者・青木コトナリ氏のコラムとしては、日経BP総合研究所メディカル・ヘルスラボのWEBサイト連載の「医療DATA事始め」から数えて3代目となる新シリーズの開始です。装いを変え、しかし信条と信念はそのままに、“えきがくしゃ”青木コトナリ氏の新境地をお楽しみください。
(21世紀メディカル研究所・主席研究員 阪田英也)
“えきがくしゃ” 青木コトナリ氏の
「続・疫学と算盤(ソロバン)」(新シリーズ) 第8回:ヘルシズム世界を生きる
背徳の味
ラーメンが好きだ。とは言っても、さすがにこのところの猛暑ではラーメン屋さんへの足も遠のくところだが、それでも月に幾度か無性に食べたくなる。よく行くお店の炒飯は私の好みの味で、特に半炒飯はプラス200円という低額で量も一人前ほどあり、ついつい「ラーメン+半炒飯セット」を注文してしまったりもする。
ラーメン・炒飯セットなるものは健康志向の人にしてみれば批判対象となる食事の代表選手だろう。どうやら炭水化物の取り過ぎに目くじらを立てて批判されているようではあるのだが、仮にそうであるならばワンタン麺とかラーメン大盛りと比べて特に悪いということでもないだろう。合理的に考えるのであれば単に「食べ過ぎに注意」で済む話であって、「替え玉ください」は良いのに、ラーメンに半炒飯をプラスすることは悪いことというのもおかしな話ではある。
であるにも関わらずこの背徳感は一体、何だろうと思うのである。焼きそばパンを食べるときにも同じような感覚がある。ひょっとしたらその罪の意識、背徳感もまた食欲をそそる一因子になっているのかもしれぬとおかしなことを考えてしまう。それだけ日本の夏が猛暑ということだろうか。
それにしても罪の意識にかられながら、こそこそと食事をするというのもおかしな話である。その一方で「健康のためには死んでもいい」、なんていう言葉もある。確かに健康は大事だ。ただ、本来的には長生きすることを目的としその手段として健康があったであろうに、生きることが健康になるためというのはもちろんジョークではあるのだが、どうやら最近ではある種の宗教のような思想として根付いているようにも思える。そういった人の思考のことをヘルシズム(healthism)というのだが、ヘルシズムの人にしてみるとこのジョークが理解できない可能性さえあるのかもしれない。
少しばかり引け目を感じつつも自分でお金を払ってラーメン・半炒飯を食べるのは悪行だろうか。この私が感じる背徳感や罪悪感はどこからくるのだろうか。今回は日本語で「健康至上主義」とも翻訳されるところの、このヘルシズムについて取り上げてみたい。
健康の定義
「健康」は時と場合、文脈によって様々に変化する言葉である。本コラムでも紹介したように私は以前に膵臓の半分を切除しており、それをもってして五体満足ではないのだからとか、あるいはQOL(質調整生存年)が1を下回っているからといった理由で「健康ではない」とする立場もあるだろう。野菜や果物のスムージを「健康的」と表現したり、なかには「健康麻雀(マージャン)」なる言葉もあったりする。その裾野は広い。
多様な意味解釈の中で世界共通としてのよりどころとなる定義はWHO憲章での定義だろう。こちらの定義を日本WHO協会では下記のように翻訳している。
「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。」*
困ったものである。膵臓の半分が無い私は肉体的にすでに「満たされた状態」とはいえそうにないが、それどころではない。精神的にも満たされ、さらには社会的にも満たされなければ健康では無いとするのならば、果たして人類のうち何%の人が健康なのか甚だ怪しい。
そもそも条件に「精神的」や「社会的」が加わることで、「幸福」であるとか「ウェルビーイング」であるといった定義との区別もはっきりとしない。試しにWHO憲章で定義された健康の主語を「健康(Health)とは、」とせずに「幸福(Well-being)とは、」として読み返してみて欲しい。少なくとも私には自然に意味合いが通るようにも思えるのである。
また一方で、この定義には私たちの生活におけるバランスの視点が強調されているともいえるだろう。「精神的な充足」において、私たちの「肉体的な健康」には良くない影響をもたらす喫煙や飲酒、あるいは運動不足であっても、それが当人のメンタルには不可欠な要素であるならばどうしたらいいのだろうか。タバコを吸うという選択肢の方が呼吸器疾患のリスクと天秤にかけて精神的な面で貢献するならばその人は「健康向上のためにタバコを吸う」はアリとなる。ラーメンに半炒飯を付ける人にとっても朗報だ。ヘルシズムに対抗できる武器の一つにもなるだろう。
医学と健康
今度は「病気」と「健康」の関係性についても整理してみたい。もともと病気なるものは江戸時代にあっては症状があっての病気だったハズであり、悪性腫瘍(癌)だとか高血圧だとかを病気の仲間に加えたのはごく近年のことであることは前回「医療化」として取り上げた。現代医学からみれば江戸の人が仮に癌が進行していても、血圧値が200近くであっても、それを測定することが出来なかったのであるから、何ら自覚症状がなければ病気ではなかったわけである。
生物医学(bio-medicine)、という言い回し、表現をご存じだろうか。直感的には「生物医学=医学」であるため、わざわざ生物医学という言葉を作る必要は無さそうだ。少なくとも症状あっての病気、という江戸時代はそうであったろう。生物医学なる言葉に必要性が生じたのは、ある意味において本コラムのタイトルでもあるところの「疫学」が関わっている。
疫学は病気の発生リスクを研究する学問領域である。例えば死因ともなる心血管障害の発生には血圧値やコレステロール値が高くなることが大いに関わっているとか、喫煙することで呼吸器疾患になる確率が高まるといったエビデンス(証拠)を提示してきたのは疫学分野の研究成果である。
また、広く公衆衛生学としてみるならば、病気はどれだけ早期に発見し早期に予防できるのか、ということにこだわるのが公衆衛生の存在意義ともいえる。そのアプローチには生物学を傍らに置きつつ、むしろ統計学や論理学といったアプローチをするのが常であり、疫学の視点からは決して「医学=生物医学」ではないのである。新たな視点を加えたという意味で疫学・公衆衛生学は医学にコペルニクス的転回をもたらしたといえるかもしれない。
確率論的病因論
疫学・公衆衛生学がもたらした医学に対する発想の展開・拡大についてもう少し踏み込んでみよう。近代医学における病因論、つまり病気を発症する原因の論理は19世紀末に近代医学理論の出現と同時に理解されたところの特定病因論といわれるものである。一方、疫学・公衆衛生学がこれを「病気の発生確率は普段の生活で変動する」としたものであり、この概念は確率論的病因論と呼ばれる。
特定病因論は基本的に病気の原因を1つの物事としてとらえる、単一原因主義である。これは例えるならばコンピュータサイエンスのようにボタンをおしたらそのボタンに指定されているミッションが開始されるといったような、病気発生が100%発生するというアルゴリズムがあるという論理だ。
これに対して確率論的病因論というのは昨今のネットワークサイエンスのように、必ずしも正しい手順で操作をしても「ネットが混んでいる」「ネットが不調」ということでどうにも今日は音声が送受できなかったり画面がフリーズしたりといった不確定要素を含むロジックといったところだろうか。
特定病因論の立場にたてば原因と結果の一致性はクリアであり例外がない。タバコを1日1000本吸えばかならず当日、呼吸器に障害が発生するとか、生涯を通じてニコチン摂取量が累積1kgに達したら肺がんになるといったところだろうか。
一方、確率論的病因論では、ヘビースモーカーであったとしても長生きする人は長生きするのであって、こうした普段の生活はリスク因子ではあっても100%確実に病気になるというわけではなく、単にその確率が上がるという指摘である。この確率論をもってして暴飲暴食や喫煙行為は健康を損ね病気の発生確率を上昇させる「不健康な行動=病気発生のリスク因子」となったというわけである。
また一方でこうした不健康な行動の日常化がもたらす検査値異常等は病気に“格上げ”されることもある。種々の検査の進歩とともに高血圧や高脂血症が病気予備軍ではなく「病気」として認知されるようになった背景には、医薬品の承認申請も深く関わっていることは前回もみてきたところである。医薬品はその“存在意義”として、まずは有効性の対象となる疾患が明らかにされなければならない。それ故に「測定(検査)出来るようになった」「新たに病名として定義された」「治療薬が認可された」の3つがしばしば同時に生じるというわけである。
「健康」定義の歴史
健康という概念が私たちの社会にどのように浸透してきたのだろうか、その経緯についても整理してみたい。諸説あり、より正確な情報を知りたい人は専門誌等を参考されたいところではあるが一大センセーショナルとなったのはアラメダセブンであろうか。遠い星から地球の平和のために訪れた宇宙人のことではない。アラメダセブンのアラメダとはアメリカのカリフォルニア州アラメダ郡にてこの調査が行われたという意味であり、セブンというのは健康習慣として提案された下記の7事項である。
(1) 7~8時間、睡眠をとる
(2) 朝食をきちんととる
(3) 間食をしない
(4) 喫煙をしない
(5) 禁酒または適度の飲酒
(6) 適度な体重の維持
(7) 規則的な運動
この調査が実施されたのは1965年のことであるが、未だ色あせていない健康維持のための7因子を特定したことにはその調査デザインの卓越性と実行力に対し大いに敬服すべきことである。
アラメダセブンの以降で、健康行動の促進をさらに推し進めた出来事としてよく知られているのがアルマアタ宣言*である。1978年、現カザフスタン共和国であるアルマ・アタにて行われたプライマリヘルスケアに関する国際会議においては西も東も、先進国も後進国も分け隔て無く「2000年までにすべての人々に健康を(Health for All by the Year 2000)」という目標が掲げられ、その実現のための戦略として新たにプライマリヘルスケア(Primary Health Care、PHC)という概念が産声を上げたのである。
プライマリヘルスケアという言葉には、分け隔て無くすべての人にとって健康を基本的な人権として認めること、そしてその達成に向けては私たち一人一人の主体的な参加や自己決定権を保障する理念が含まれている。そしてまた、10章からなるアルマアタ宣言のその第1章は先のWHOが憲章で定義した健康の定義に、権利と行動規範が下記の通り加わっている。
健康とは肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあるということ。それは単に病気ではないとか、弱っていないということにとどまらず、基本的人権のひとつであるということ。可能な限り高い水準の健康状態を実現することは世界全体の最も重要な社会目標であるということ。
そしてその実現には、保健医療分野のみならず、他の多くの社会的・経済的分野からの働きかけが必要であるということ。
(日本WHO協会による翻訳)
病人に対する批判思想
かくしてその昔は「症状の発生」をもってしてのみそれと認識された病気は、やがてその予知や予防に目が向けられることになり、その言動を「健康/不健康」と呼称するようになった。こうした世界的なムーブメントとしての健康増進活動はその成果として各国の平均寿命の延伸に少なからず貢献したことに反論する人は少ないだろう。もはや誰しもが「健康のために悪いよ」などと言われてその是正を試みるような世の中になったのである。めでたし、めでたし。
ところが、この健康増進活動の登場が思わぬ社会的な“副作用”をもたらすことになる。言うなれば「行き過ぎた自業自得論」、つまり病気に苦しんでいる病人に対するあらぬ批判である。疫学や公衆衛生学は日常生活の心がけによって病気になったりならなかったりすると警鐘をならすのだが、それを「病人とはつまり不健康行動を繰り返した帰結である」と、ちょっとおかしな理解をする人が出てきてしまったというわけだ。これは従来、病人に対する慈悲や支援といった心情とは真逆である。1986年のオタワ憲章ではこうした“副作用”の対策も絡めて、病気は当人の行動だけが問題なのでは無く社会や環境も重要であることが強調されている。
ただ、それでもなお間違った病人批判の火が完全には消えるわけではない。エイズが流行したときは「そもそも同性愛が悪い」といった論調があったし、「神の逆鱗にふれた」とまで吹聴するような人も現れた。今でも透析患者さんに対してはその原因を自堕落な生活による帰結なのだから自費でこれをまかなうべきという主張も聞こえてくる。なかなか難しい。
健康日本21
アラメダセブン、アルマアタ宣言、オタワ憲章といった国際的な流れを受け、ここ日本ではどのように「健康増進」が解釈されているのだろうか。健康増進法が制定されたのは2002年のことである。その目的として第一章総則第一条配下の通り。
この法律は、我が国における急速な高齢化の進展及び疾病構造の変化に伴い、国民の健康の増進の重要性が著しく増大していることにかんがみ、国民の健康の増進の総合的な推進に関し基本的な事項を定めるとともに、国民の栄養の改善その他の国民の健康の増進を図るための措置を講じ、もって国民保健の向上を図ることを目的とする。
この法律においてやはりセンセーショナルな視点はこの後に続く第二条、国民の「責務」として掲げられた下記の記載だろう。
国民は、健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、生涯にわたって、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない。
ただいまの国策は「健康日本21」と呼称されるもので、これは健康増進法をより推し進めるための戦略といったところだろうか。現在はその第三次として位置づけられており「個人の行動と健康状態の改善」として、私たち国民に対して向けられているのは主に以下の通りである。
(1) 生活習慣の改善
(2) 生活習慣病の発症予防・重症化予防
(3) 生活機能の維持・向上
もちろん、前述した通り私たち個人にばかり強いているのではなく、発病を自己責任だとしてあらぬ批判がされぬよう、社会としての努力として「社会環境の質の向上」についても言及されている。中身は以下の通りだ。
(1) 社会とのつながり・こころの健康の維持及び向上
(2) 自然に健康になれる環境作り
(3) 誰もがアクセスできる健康増進のための基盤の整備
こうした取り組みについては主には自治体や公的機関に向けられているものだと思われるが、例えば「社会とのつながり」など、私たち個人でも貢献できるところがあるかもしれない。
言行の不一致
さて、ここまで健康について取り上げてきたところであるが、「言うはやすし」、内心、恥ずかしい気持ちにもなっている。要するに人様に対して偉そうに語れるほど私の日常は健康的ではない。上述したアラメダセブンの7項目をみても、合格点は半分ほどで、白状すればほぼ毎日、(3)間食を欠かしていないし、(1)(6)(7)も到底、合格ラインには無さそうである。読者諸氏の皆さんはどうだろうか。
私も疫学・公衆衛生学を広く社会に広げたいと思いながら活動をしているところではあるので、広くとらえるならばヘルシズム、健康志向至上主義側の人間といえるかもしれない。開き直って、「医者の不養生(ふようじょう)」という言葉もある。ここはどうかひとつ、同士の皆さん、私のラーメン・半炒飯セットを見逃してはくれないだろうか。
「続・疫学と算盤(ソロバン)」第8回おわり。第9回につづく
WHO憲章による健康の定義
アルマアタ宣言
健康増進法
健康日本21(第三次)
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