2024年10月22日
2020年10月20日から連載開始した「疫学と算盤(そろばん)」は、昨年末、通算第36回を数え無事終了しました。36回分のコラムはご承知かと思いますが、当WEBサイトにてダウンロードできる電子書籍となっています。2024年1月からは、コラム続編の「続・疫学と算盤(ソロバン)」がスタートします。筆者・青木コトナリ氏のコラムとしては、日経BP総合研究所メディカル・ヘルスラボのWEBサイト連載の「医療DATA事始め」から数えて3代目となる新シリーズの開始です。装いを変え、しかし信条と信念はそのままに、“えきがくしゃ”青木コトナリ氏の新境地をお楽しみください。
(21世紀メディカル研究所・主席研究員 阪田英也)
“えきがくしゃ” 青木コトナリ氏の
「続・疫学と算盤(ソロバン)」(新シリーズ) 第10回:疫学のルーツ
大文字焼き
8月の末、京都駅に程近いホテルに宿泊したのは、何のことはない、たまたま手に入れた宿泊割引券を無駄にしたくなかったという貧乏くさい理由からである。もちろん、ついでというのか、大文字焼きなるイベントがこのホテルから見ることが出来るというのが無ければおそらくその宿泊割引券は使わずに失効していたに違いない。
京都の大文字焼き。年に一度しかないイベントなので宿泊割引券のあったこの機を逃したらひょっとしてもう二度と見る機会もないかもしれない。始まりの時間となる夜8時近くにホテルの屋上へ向かうと、既に楽器の生演奏が聞こえてくる。ちょっとしたお酒やおつまみも販売されていて、屋上広場は既に多くの宿泊客でにぎわっていた。
8時になると右手の山からうっすらと明かりが見える。事実関係を正しく描写するのであれば、「火の手がある」と形容すべきかもしれない。それが「大」の字になるまでには大した時間も掛からなかった。なるほど、これが大文字焼きというやつかと感心している頃合いに今度は正面の山で何やら別の文字が浮かび上がってくる。角度的なこともあってハッキリと文字として読むにはちょっと苦労もあったのだが、周囲の声からして「妙」という文字と、「法」という文字らしい。
やがて左手の方からも明かりが見えてくる。今度は文字ではなく、何やら絵のようである。船の形と鳥居の形が見えてくる頃には、最初に見えていた右手の「大」の文字は既に燃え尽きている。なんだ、夜通し燃え続けているのではないのか、などといったら私の無知ぶりにあきれられそうだが、実際のところ全くもってその通りなのであるから批判されても受け止めるしかない。最後に消え残ったのは「左大文字」と呼称されるところの、左手に見えていた少し小さな「大」の字であった。「これって、何のためにやっているの?」と近くの子供が親に聞いている。この子は私の代弁者だ。教養のない私は大文字焼きには「妙」や「法」の文字や絵のバージョンがあることも、この子と同じく大文字焼なる儀式の理由をその日まで知らなかったのである。
今回はコラムタイトルでもある「疫学」について、この学問が生まれたときのお話、ルーツを紹介しようと思う。後で調べたところでは京都の大文字焼きなる行事は送り火であり、現世に迎えた精霊を再び浄土へ送る行事だという*。然るに、その意味合いもルーツも知らない私がエンタメの一つのようにして「見てみたい」とするのは、おそらく京都周辺の人にしてみれば罰当たりに違いない。加えて、“イベント”扱いした冒頭の描写についても、心証を害した方がいらしたら平にお詫びしたい。「知らない」はときに罪深い。ルーツを知っておくことは、先駆者に対する敬意と物事の本質を理解するうえで大切なことだとあらためて思った次第である。
ブロードストリート事件
疫学の発祥はロンドンの片田舎にあるブロードストリートで起きた悲劇がそのルーツであるとされる。時は1854年。人口わずか3万ほどのこの地で起きたコレラによる感染の拡大は恐ろしい速さで人々の命を奪っていく。最初の1例が亡くなった8月28日からの3日間で計127人が、9月10日までには500人以上が亡くなったとある。現代のように何によってそれがもたらされているのかすら知らなかった時代にあって、死神の到来を感じたであろう、住人たちの恐怖と肉親や友人を幾人も失った悲しみはいかばかりだったろうか。
当時、感染症は悪い空気(=瘴気<しょうき>)がもたらすものと信じられていたという。特段、臭いがひどい地域では感染症の被害が大きく、空気が澄んでいるところでは少ないというのもよく知られていたことである。これは学説としては「正解」では無かったものの、一方で「清潔にすると死が遠のく」という意味では正しい方向性へのヒントでもあり、疫学のみならず公衆衛生がここに産声を上げた、ともされる。
さて、後の世が「疫学の父」と呼ぶところの麻酔科医、ジョン・スノウがこの瘴気説を疑ったのは罹患者に関する例外の存在である。つまり、たくさんの死者が出ているところにも生存者が居て、逆も然り。このモヤモヤから出てきた答えは、空気ではなく「水」である。
スノウはこの地で一軒、一軒を回って調査をした。死亡例を地図にマッピングすることで自身の仮説-感染症は水がもたらす-を強固にする。彼が疑った水道会社、端的にいえば病気のモトが入っている水が身体に入れば死、その水を飲んでいなければ死なないという仮説は少なくともスノウ自身にとってはその仮説が真実であることを確信させる“動かぬ証拠”となったのである。
スノウの指示により当該水道会社の井戸水は閉鎖されることになる。サラリと史実を言えばこういう表現になるのだが、一介の医師が行政に働きかけ、行政もまた「はい、承知しました」とは通常ならないものだ。そこにはどんなマジックがあったのだろう。ともかく井戸の封鎖をもってしてブロードストリートでのコレラは沈静化し、数週間の後は死亡例ゼロとなったのである。
疫学の本質とは
さて、この一件から私たちは何を学ぶだろうか。疫学の本質、エッセンスとは何とするべきなのだろうか。医療行為は一般に目の前の患者を救うために行われるところの、時には「命の恩人」となるような高尚な職務といえる。ただ、もしそうだとするならばスノウが行った「井戸の封鎖」は、1人、2人の命を救うという医療一般とはケタが違う。“高尚”のレベルが違うのだ。仮にスノウがいなければ、仮に1か月ほどその判断と行為が行われなかったとすれば、被害はどれだけ拡大しただろうか。スノウの学説はやがてロンドン市中、そしてイギリス全土、あるいは地球上に広まり「水は一旦、沸騰させてから飲む」は常識となった。そうだとすればスノウが救った人の数は数万人、数百万人かもしれないのである。
疫学の原語Epidemiologyの接頭語「epi」には「上位の」という意味があるという。救う命が桁違いということは、医療行為一般と比してある種、疫学の本質と言えるかもしれない。先般のCovid-19によるパンデミック鎮静化にしても、世界中の疫学者の存在は欠かせない存在であったと私は確信している。
また、私たちが苦手(?)とするところの、「常識を疑う」、科学の基本姿勢の大切さを教えてくれる。後ほど触れるが、スノウの「コレラは水がもたらす」説は当時の権力から酷評されることになる。私たちも長いこと生きていればわかることであるが、権力への反論がいかに勇気の居ることなのか、常識を疑うことの困難さに加え権力を否定することの困難さという、その二重苦(?)を乗り越えよ、というのもまたザ・疫学の本質かもしれない。
一軒、一軒、調べて回って地図にマッピングするという行為からは何がみてとてるだろうか。「真実を求め、エビデンスを高めるためには手間ひまを惜しまない」姿勢の大切さ。因みに、コレラ発症の直接の原因であるコレラ菌が同定されるのはスノウの死後、しばらく経ってからのことである。生理学に頼らない、データから最適解を導くというのが疫学の真骨頂と言えそうだ。
最後に、「行政を実際に動かした」こともまた多いなる学びとなろう。机上の学問として留めるのではなく、実学として実用として、目の前の社会課題を実際に解決するまで行う。そのためにも行政に信頼され、普段から有効な関係を築いておくことも社会課題を解決するうえで大切な視点である。それは私のような二流の疫学実践者が周囲や行政に対して「理解してくれない」などとしてクダを巻いたり、さじを投げたりする姿勢をたしなめるのである。
因果推論の方法論
スノウの研究論文はWebからも入手可能である*。論文から、彼が行ったところの「水が原因だ」に至る因果関係の推論にどのようなアプローチをしたのかみてみよう。
タイトル「ON THE MODE OF COMMUNICATION OF CHOLERA」として発表された論文で利用されている手法は、現代でいうところの「差の差分析」と言えるだろう。「差の差」という表現はなんだか「King of Kings」だとか「絶対の絶対に」といったように韻の踏み方が印象的であるが、簡単にいえば因果推論には「差」だけではダメで、「差」の「差」であればその推論を検証するうえで各段に有益だということである。ここでいう「差」とは、医薬系研究の言葉でいえば何らかの「介入」の前後を比較した「差」のことである。例えば「薬の投与」の前と後。すなわち投与前には高熱だったのに、薬の投与の後では平熱になった、といった具合だ。
「薬の処方前が高熱で、薬の処方した後が平熱ならば薬のおかげではないのか?」というツッコミが聞こえてきそうである。「はい、その理解で合っています。」、前と後の「差」だけしかわからない、この情報だけでは「薬のおかげで熱が下がったとは言えない」が疫学の答えとなる。
別の例でみてみよう。例えば「雨ごい」はどうだろうか。幾日も日照りが続くのは神様のような存在が機嫌を悪くしたからだとして、神にお祈りをする儀式「雨ごい」がその昔は様々な文化圏で行われていた。中には「いけにえ」を差し出したりと、現代科学でいえば悪行このうえないことまでして「日照り→雨ごい→降雨」が実現される。これによって「雨ごい」が有効だ、とは現代人は納得しないだろう。雨ごいをしなくてもじきに雨は降るのだから。
こうしてみると「日照り→雨ごい→降雨」と、「高熱→投薬→平熱」が同じ構図となっていることがわかるハズだ。「熱が出た→薬を飲んだ→治った」の構図は俗に「三た論法」、つまり3つの「た」でつながる一連の流れだけでは因果性の判定には不十分なのである。
差の差分析とはその意味で、只今、医薬品の承認申請で標準的に使われている無作為化臨床試験とロジックとしては同じといえるかもしれない。候補薬Aの処方前後情報だけではエビデンスが足りないが、無作為で選ばれた既存薬Bを処方された人たちの治療前後の差を、当該候補薬Aでの前後の差と比べる。それが「差の差」を分析する、ということである。
実際の差の差分析という手法は医薬ではなくむしろ社会学や経済学のような実験が不可能なシチュエーションを扱う学問領域で多用される。スノウが行ったアプローチもまたしかり。5年前、つまり1849年に発生したコレラ流行時との比較において、“実験”は無理ではあるが、「水質向上策をとった水道会社A」を利用している家での5年前の死者数の「差」を、「何ら水質向上策をとっていない水道会社B」を利用している家での5年前の死者数との「差」と、その差の差を比べたのである。
ランセットからの“酷評”
ブロードストリート事件の後日談についても紹介しよう。前述した通りスノウの学説、「感染症は水がもたらす」は当時の権威でもあるジャーナルからはバッシングを受けている。「彼は自分の学説にとらわれてしまい、周囲が見えなくなってしまったようである」論調を掲載したのは、現代でも権威として名高いジャーナル「ランセット」である。
史実を知っている後世に生まれた私たちにとっては、その批判がナンセンスであり、むしろ「ランセットこそ、強い思い込みと権力主義でスノウの行った偉大なる行為の価値に気づいていない」と言いたいところだ。コレラは以降も幾度か流行し、それに対峙するに際して半信半疑(?)のようにして「水による感染拡大という説が正しい可能性もある」行為(例えば水は一旦、沸騰させてから飲む等)が繰り返されることによって、ようやっとスノウの偉大さに社会は気づくことになる。これはスノウが亡くなってからの話である。
ただ、スノウの説は感染症のすべてについて水がもたらすとしてもいたので、空気感染、あるいは動物由来等々、感染症のルートが多様であることがわかった現代においてはスノウの主張がすべて正しかったわけではないことも理解しておく必要があろう。もちろん、これをもってして多くの人命を救った彼の功績は何ら傷つくものではあるまい。
時代の移り変わり
大文字焼きは正式には「五山送り火」と呼称する。京都の人の中には大文字焼きという表現を嫌う人もいるらしい。この儀式のルーツについてというよりも「送り火」なる文化の発祥そのものですらおよそ15世紀以降らしい、としかわかっていないようだ。
同様にして疫学のルーツといってもその意味では諸説あってしかるべきで、スノウの前にももしかしたら他の国において、史実に残っていない「疫学の発祥」のお話はあるのかもしれない。ただ、一般に知られているところの疫学の発祥とはつまり、この一件、ロンドンでおきたブロードストリート事件である。
ルーツが諸説ある場合の真偽の探求は歴史学者にお任せすることとして、何より大切なのはその精神の伝承だろう。常識を疑い、権力に立ち向かい、仮説の検証に有益なデータを惜しまず集めデータを可視化し、実際にアクションをすることで実際に社会問題を解決する。それが疫学たるものであることをよくよく認識する必要がある。これは私自身に対しての戒めでもある。
また、学問として学んだところのコホート研究であるとか、ケースコントロール研究であるといった手法を行うのが疫学だという思い込みは捨てた方がよいだろう。スノウが現代でも存命であったならばおそらくはSNS分析やウェアラブル由来の活動量データなどを使って誰もが気づかない新たな学説を提唱していたような気がしてならない。基本も大切だが、アプローチやデータの収集方法などは時代とともに更新してよい。重要なのはその本質であり、「そんな方法論はこれまで聞いたことがない」といった理由で否定するのは、少なくとも疫学の何たるかを知らない所業といえるだろう。
五山送り火の風習には、その本質であるところの「送り火」の意味に加え、おそらくは京都の人にとって夏が終わり、これから少しずつ秋に向かって涼しくなるといった季節の節目もあったことだろう。確かに以前であれば8月末とは季節の変わり目の一区切り、夏の終わりであったような記憶がある。ところがこのところの残暑はどうだ。10月を過ぎてもしばしば夏日(最高気温25度以上)が観測されるのが至極アタリマエのことになってしまった現代にあって9月一杯は真夏の暑さだ。
五山送り火の、秋の到来を告げるという任務の方は悲しいかな、地球の温暖化とともにその終わりを告げたといえるのかもしれない。
「続・疫学と算盤(ソロバン)」第10回おわり。第11回につづく
*京都五山送り火連合会
*ジョン・スノウ論文「ON THE MODE OF COMMUNICATION OF CHOLERA」
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