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第11回:水まわりの公衆衛生

2024年12月03日

2020年10月20日から連載開始した「疫学と算盤(そろばん)」は、昨年末、通算第36回を数え無事終了しました。36回分のコラムはご承知かと思いますが、当WEBサイトにてダウンロードできる電子書籍となっています。2024年1月からは、コラム続編の「続・疫学と算盤(ソロバン)」がスタートします。筆者・青木コトナリ氏のコラムとしては、日経BP総合研究所メディカル・ヘルスラボのWEBサイト連載の「医療DATA事始め」から数えて3代目となる新シリーズの開始です。装いを変え、しかし信条と信念はそのままに、“えきがくしゃ”青木コトナリ氏の新境地をお楽しみください。 

                     (21世紀メディカル研究所・主席研究員 阪田英也


“えきがくしゃ” 青木コトナリ氏の 

「続・疫学と算盤(ソロバン)」(新シリーズ) 第11回:水まわりの公衆衛生


ノスタルジー

YouTubeをよく見る。先日は松本清張原作の「張り込み」という映画が無料配信されていたので、どんな映画だろうかとちょっとだけ視聴してみた。古い映画で全編モノクロ。拳銃強盗殺人犯が以前、付き合っていた女性宅に訪れるとにらんだ2人の刑事がタイトル通り「張り込み」をする映画である。映画はその現場となる佐賀県へ刑事が列車で向かうところから始まる。


この、移動のシーンが恐ろしく長い。通常は物語の主テーマでもなければ刑事の移動なんかはワンカットで終わりそうなものだが、横浜から佐賀までの道のりの描写は5分以上も続くのである。それだけ九州までの距離が長いということを演出したかったのだろうか、気になった方は是非ご視聴してみて頂きたい。

思えば新幹線の無かった時代、新潟の片田舎に住んでいた幼少期の私が家族で東京まで旅行となると、その移動には半日ほども掛かったものである。初めての東京旅行で駅弁を初めて食べたのだが、奇妙な入れ物に入れられているお茶が添えられていた。今のようなペットボトルの無い時代である。どうにもそそられない、そのプラスチック容器に入れられたお茶がまさかの有料だと聞いてびっくりしたことを覚えている。当時の常識ではお茶を有料で購入するなどクレイジーで、ましてや今のように普通に水をお金で買う時代になるなど想像すら出来なかったのである。


さて、前回は疫学のルーツ、ロンドンで発生したコレラ禍のお話を紹介したのだが、このお話は公衆衛生のルーツとも言われることがある。以前、当コラムでも「公衆衛生=みんなの健康」としてとりあげたが、マスクや手洗いといった人の衛生的な行動ではなく、ここでのお話はインフラまわり、下水道整備の話と読み替えても大きくは違わない。今回はその水の方に焦点をあてて1854年のロンドンを再び訪れてみよう。


不衛生

下水道整備の話をするためには、整備がされていない状況の描写を避けて通れない。もし駅弁など食事をしながら本コラムを読み進めている方がいるとしたら、まずは食べ終えて頂き1時間ほど経ってから読んで頂くことを勧めたい。さて、スノウが活躍した当時のブロードストリートの状況は下記のようであったという。


“汚く天井の低い路地に入った。路地は、広い通りから最初の家を通って四角い広場まで続いている。そのすぐ後ろ側に吐き気をするような肥溜(こえだめ)があった。この広場を抜けて路地に向かう。路地は別の広場につながっていて、ここもまた糞便の山でいっぱいだった。そこからさらに三本目の路地があり、路地は三番目の広場と三番目の糞便の山にたどり着く。ここには便所も下水整備もなかったから、これら糞便の山は、哀れな住民の群れが落としていく汚物全部を、一手に引き受けていた。”

(「The Medical Detective-John Snow and the Mystery of Cholera-」Sandra Hempel著より)


どうだろう。「下水道の整備がされていない」という言葉から想像されるものよりもはるかにひどい状況だったと感じられたのではないだろうか。1854年とはいえ、大都会ロンドンの一角においてこのような状況はなかなか想像しづらいところである。コレラの流行が発生しようがしまいが行政がなんとか介入すればよさそうなものだが、コトはそんなに単純ではない。別の視点からの記述も引用させてもらおう。


“1854年の8月、ロンドンはごみあさりたちの街だった。骨拾い、ぼろ集め、犬糞集め、どぶさらい、泥ひばり、下水狩り、燃えがら屋、下肥屋、脂かす乞い、川底さらい、河岸受け、、、この業種の呼び名を並べれば、まるで珍獣動物園の目録だ。” (「The Ghost Map」Steven Johnson著より)


日本語タイトル「感染地図」とされたスティーヴン・ジョンソンの名作は「下肥屋(しもごえや)」という小見出しにてこのような書き出しで始まる。つまり、こうした汚物は商品として売買されており、これを一掃しようということになれば職を失う人が少なからずいるという図式にもなっていたというわけである。私たちは手つかずの地域課題を目にすると反射的に「自治体がサボっている」などと思ったりもするのだが、案外とこのような入り組んだ事情があって、なかなか手をつけられないのかもしれない。


公衆衛生の父

さて、このような入り組んだ状況を打破したのは、悲しいかな“コレラ禍”だったと言ってよさそうである。現代にあっても多くの人の命を奪った“コロナ禍”はオンライン診療やリモート会議の浸透など、無駄な移動時間の削減に貢献したといったような社会的にプラスの側面もあり、なんとも皮肉である。


前回紹介したように当時は瘴気(しょうき)説という権力がはびこっていて、つまりは「空気を綺麗にさえすれば決して感染症は発生しない」ということから、とりあえずは前述したような悪臭をもたらす汚物の撤廃は猛威を振るったコレラの根絶を旗印としてどうにか進め始めることとなった。その中心人物は瘴気説の強固な支持者である当時の公衆衛生局長、エドウィン・チャドウィック*だ。彼自身もやはり汚物を経済的な価値として捉えていたようではあるが、何より人の健康はそれよりも優先されるということから様々な手を打って汚物の洗浄を進めていったのである。

チャドウィックは今でいう公衆衛生に人生を捧げた人であり、しばしば公衆衛生の父とも呼ばれる。1842年に彼が著した報告書「公衆衛生に関する一般報告」では、公衆衛生政策の重要性が強調され公衆衛生法の制定につながったと聞き及ぶ。昨今では貧困と健康との関係性の強さが知られているところであるが、彼はこうした関係性が必ずしも認識されていないその当時に救貧法の策定とその推進にも大いに貢献している。晩年、1885年にはこうした公衆衛生分野での活躍を称えられナイトの称号を得ている。


多くの社会的貢献をしたチャドウィックではあるのだが、疫学分野におけるスノウのような、いわばヒーロー扱いをあまりされていないのは彼のキャラがそうさせるのだろう。彼は言わば“モーレツ”な人であったようで、当時の市民からはよく思われていなかったらしい。チャドウィックが局長を降りた際には「新任局長にはずばぬけて有利な点がひとつある。前任者が嫌われ者だったおかげで、何をしてもそれ以上に嫌われる心配がないことだ。」(「感染地図」より)といった報道がなされたという。ただ、ひょっとするとこれは必然といえるのかもしれない。多くの既得権益や利害がうごめくなかにあっては、人に嫌われることを意に介さない人でなければ社会変革は成し遂げられないという状況は現代でもさほど変わってはいない。


かくして瘴気説に後押しされ、汚物の処理は徐々に成し遂げられていったのであるが、これもまた皮肉といえば皮肉だ。汚物処理を後押ししたところの悪臭あるところにコレラは発生し、なければ発生しないという学説自体は正しくはなかったわけである。コレラ発生源の“容疑者”である汚物の処理とは違って“真犯人”、水質の改革の方はこの後10年ほど待たなければならなかった。


ジョン・スノウによる下水処理事業の“後方支援”

前回、紹介したようにスノウによる「水がコレラを運んできた」説は、彼による井戸の封鎖によって「正しかった」とは残念ながら広く社会的には認識されなかった。何故ならばペストや5年前の1849年に発生したコレラなど、それまでに発生した感染症のほとんどは有効打も見いだせないままに収束しており、1854年のコレラ鎮静化もまたそうであったのではないかという仮説を明確には否定することが出来なかったからである。


世界的権威のある科学雑誌「ランセット」がいかにスノウを糾弾したのか、こちらも引用させて頂こう。


“ドクター・スノーは何故あのような特異な意見をもつのであろうか?(中略)ドクター・スノーは、動物や植物から立ちのぼる気体は無害だと言い放っているのである!(中略)全ての衛生問題のもとは井戸だというドクター・スノーの理論は不浄な考えである。そのような不浄な考えが出てきたのは、彼の研究室が排水溝の中にあったからである。彼は独断に執着するあまり、マンホールに落ちてそこから出られなくなったらしい。” (「The Ghost Map」Steven Johnson著より)


ただ、一方で瘴気説論者の中にあってもスノウの学説についても一理あるな、と肯定していた人はいたらしい。といってもそれはあくまで瘴気説、悪い空気原因説がやはりメインなのであって、つまりは汚水によって悪臭が発生するのだから、汚水を浄水すれば悪臭が発生しにくくはなるだろう、そんなロジックである。


情勢が変化したのは1858年である。異常な猛暑(といっても、今の日本の夏ほどではないだろうが)によって汚れたテムズ川から立ち込めた臭いは「大悪臭」と命名されたという。瘴気説によるならば、「大悪臭」なのだから1854年のように、あるいはそれ以上にバタバタと死者が出そうなものであるが、この年にパンデミックは起きないのである。あれ、どうしたことだろうか。ひょっとしたらスノウの説は正しかったのではないだろうか、となった。「そら見たことか!」とスノウは主張したかったかもしれないのだが、大悪臭がピークを迎えたこの年の6月、スノウは帰らぬ人となった。享年45歳。彼の生前に賞賛を与えることが出来なかったこと、むしろ多くの批判を浴びせられたことが何とも残念である。


汚水が原因と仮設するのであればスノウが生前から主張していたところのテムズ川に下水を直接、流すことはよくない、ということで下水整備は加速していく。お気づきだと思うがここでも瘴気説論者は「テムズ川が浄化されれば悪臭は減る」ロジックに固執することが出来るのであって、チャドウィックは亡くなるまで瘴気説を信じ続けていたという。


大公共事業の完成

ロンドンで行われたこの下水整備事業は、エッフェル塔の建築事業と同程度の大規模なものだったそうである。この事業の遅れから1866年にはまたしてもコレラの流行がロンドンを襲っている。6月末から8月末までに4000人の死者が出ているのだが、建設工事が終わっているもののポンプの稼働が遅れたため最初に感染した家庭のトイレ排水が適切にろ過されなかったことが被害拡大の原因と言われている。つまりこの1866年のコレラ禍は水道会社のずさんさがもたらしたものとも言えるのだが、彼らは瘴気説を盾にコレラ流行は下水道工事の遅延とは関係ないと言い張ったという。しかしながらこの頃になるとスノウの学説には一段の高い科学的説得力が増しており、また、より詳細な調査にヒトもお金もかけることが出来るようになっていた。死者のうち93%が当該の水道会社を使っていたことまで調べがついている。


ここまで読んでいただいた読者諸氏はスノウへのいわれのない批判について、どうにもスッキリとしないことだろう。せめて「ランセット」にはスノウに謝って欲しい。この1866年にランセットが掲載した記事を紹介したい。


“ドクター・スノーの研究は、昨今の医学において最も実り多いもののひとつである。彼はコレラの伝播法を突き止めた。(中略)ドクター・スノーは偉大なる我らの恩人で、彼が与えてくれた便益は衆人の心にしっかりと刻まれなければならない。“

(「The Ghost Map」Steven Johnson著より)


謝罪はなかったのか、といえばどうやら無かったようである。それでもスノウの功績はもはや誰の目にも明らかである。彼の功績を称えたジョン・スノウ・パブ*は今や疫学を志す人たちの“聖地巡礼”の場所となっている。


大切な水

かくして私たちは上下水道の整備された社会に身をおいている。また、日本にあって水は当たり前に綺麗であるが、ご存知の通り貧困国にあっては全くもって当たり前なことではないことは認識しておくべきだろう。水洗トイレの技術輸出は容易だと言われるが、水質そのものが日本のレベルにない国においては感染等の危険がありそのまま技術輸出は出来ないとも聞く。然るに、お茶ばかりか飲料水が有料で販売されていることは驚くようなことでもないのかもしれない。


それにしても不思議なものだ。実際には瘴気説なる間違った説に固執している人たちが寄ってたかってスノウを「自分の考えに凝り固まっている」と批判する。自らは決してそのようなことがないと、全くもって気づかないのだ。ひょっとしたらこれは私たちもそのようなミスを多かれ少なかれしばしば犯しているとみてとった方がよいだろう。時折、私たちは「あの人は頭が固い」とか、「融通がきかない」といったように批判はしていないだろうか。この他者への批判はすなわち、「私には決してそのようなことはない」「自分は柔軟だ」という、いわば過信・妄信が前提となっている。私たちだって負けず劣らず、頭が固い可能性が往々にしてあるのだ。


「いえいえ、私はそんなことはありませんよ。」と反論する人がいたならば、その人はむしろ間違いなく頭の固い人、疑いナシだ。柔軟な考えというのはあらゆる可能性を否定しない姿勢が前提なのであり、であるならば頭の柔らかい人は「私にもそのようなところがあるかもしれません。」と答えるに違いないのだから。

(・・・という私の考えもまた頭が固いのかな)


*ウィキペディア「エドウィン・チャドウィック」


*ウィキペディア「John Snow Pub」


「続・疫学と算盤(ソロバン)」第11回おわり。第12回につづく





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