2022年8月29日
2020年10月20日から、3週間に1回、大手製薬企業勤務で“えきがくしゃ”の青木コトナリ氏による連載コラム「疫学と算盤(ソロバン)」がスタートしました。
日経BP総合研究所メディカル・ヘルスラボWEBサイトに連載し好評を博した連載コラム「医療DATAコト始め」の続編です。「疫学と算盤」、言い換えれば、「疫学」と「経済」または「医療経済」との間にどのような相関があるのか、「疫学」は「経済」や「暮らし」にどのような影響を与えうるのか。疫学は果たして役に立っているのか。“えきがくしゃ”青木コトナリ氏のユニークな視点から展開される新コラムです。
(21世紀メディカル研究所・主席研究員 阪田英也)
“えきがくしゃ” 青木コトナリ 連載コラム
「疫学と算盤(ソロバン)」 第24回:科学者の“熱病”
旅行みやげ
ミケランジェロの傑作と謳われるシスティーナ礼拝堂天井画を見てみたいと思い、コロナ禍の折ではあるが家族で出掛けることとした。といってもさすがにバチカンにある本家本元というわけにもいかず、伺ったのは「完全再現した」とまでいう、徳島県にある大塚国際美術館の方である。所詮は模倣でしかないとはいうものの、しかしながらこれほどまでの大規模な模倣品に出くわしたこともなく、その他数々の西洋画の“模倣”を取り揃えた当該美術館の関係者には、天才ミケランジェロのそれとはまた違った意味で感服する思いであった。
この旅の土産にとんでもないオマケを貰ってきてしまった。コロナである。帰京後、家族3人が仲良く発熱し、私はその“代表者”としてPCR検査を受け、めでたく(?)陽性判定となった。解熱剤等を受け取り、只今はその自宅待機期間が明けたところである。
それにしても不思議なものである。これだけコロナが大騒ぎになっているにも関わらず、自分が罹患するまではどこか他人事のような心持ちであった。ワクチンも接種しているし自分はコロナに罹患しないのではないかという不思議な信念のようなものがあったのは何故なのだろうと、罹患してみてはじめて感じたりもしている。
それだけヒトは身に迫る危機について自分事として捉えるのが苦手ということなのか。それとも何らかの宗教めいた心理作用なのか。震災で命を守るためには初動が肝心と聞くのだが、かなりの揺れを感じる地震ですらどこか「きっと大丈夫だろう」と思ってしまう私は、イザというときも初動に遅れをきたしてしまいそうである。
前回までの本コラムの中で、サイエンスとは何か、その手続きとはどのようなものかについて捉えるうえで、疫学研究の事例ではなく敢えて心理学分野の事例でお話をしてきたところである。これは科学なるものが疫学よりも上位概念であり、要するに「疫学世界の小さなサークルでの常識を押し付けたいわけじゃない」からという理由なのだが、折角ならもう少しその寄り道~心理学を事例に使う~を続けてみたい。科学の手続きを標準で行うこととなった、科学にとっては“苦手科目”とも言えそうな心理学分野は「実証心理学」として、いくつもの有名な社会的な実験を行っている。こうした事例を題材として、科学的にあらんとする一方でのその限界や“熱病”について概観しよう。
認知バイアス
先回みてきたように、心理学分野にあって幾度も実証実験が繰り返され、国や文化を越えても一致性がみられたといった現象や心理作用には心理学用語がつけられることがある。例えば地震の揺れを感じても大したことは無いと思いたい心理は、「正常性バイアス」という名前が付いている。「私はコロナに罹患しない」という根拠のない自信には、「信念バイアス」という名前がつく。こうしたバイアスは、要するに私たちの物事や出来事に対して認知の仕方が誤っているという意味で、総じて「認知バイアス」の仲間にカテゴライズされる。
中でも「信念バイアス」は強力で、「信念の保守主義(Belief Conservatism)」という用語まである。一旦、“信念化”してしまうと、そうやすやすとそのバイアスから私たちは抜け出すことが出来ない。昨今、社会問題として再び脚光を浴びているカルト宗教も(一般の宗教も?)、周囲が様々な説得をしたところで「信念の保守主義」の壁は厚く、「はいそうですか」といって物分かりよくその宗教や思想から抜け出すことは難しいようだ。
スタンフォードの監獄実験
さて、心理学実験の中でも世界的に有名な研究を1つ紹介しよう。「スタンフォードの監獄実験」と呼称されるこの実験は、アメリカのスタンフォード大学によって企画、実施されたものである。大変有名になった研究なので、皆さんもどこかで聞いたことがあるかもしれない。ここでの仮説、つまり思いついたアイデアであり証明しようとした心理学は、「ヒトは特殊な肩書や地位を与えられると、その役割らしく行動する」といったものである。
実験に参加した学生のうち半分は看守役、残りの半分は受刑者役となり2週間過ごすという計画である。かなり手の込んだ計画であり、囚人役の学生の元へはパトカーが駆けつけ逮捕し、手錠をかけられたうえに指紋の採取やシラミ駆除剤の散布までしたという。看守役は1日8時間の3交代制、囚人役は丸々24時間の参加で報酬は1日につき15ドル。看守役はサングラスとカーキ色の制服に警笛と木製の警棒を持ち、囚人役は足に鉄製の鎖がはめられID番号で呼ばれる。
さすがに実際の刑務所で研究を行うことは出来なかったようで、スタンフォード大学の地下室をそれ様に準備して行われたこともこの“実験”を有名にさせた一因かもしれない。計画では2週間この状況を観察するハズであったが、実際には6日間で打ち切りとなったという。因みにここでいう打ち切りは実験の失敗を意味しない。実は企画者の想像を超えて看守役は看守らしく、~行き過ぎてエラそうな態度をとったり囚人へ暴力をふるったり~、囚人のうち何人かは、うつ病などの症状がでたことからやむを得ず止めたものである。つまりこれは臨床試験における「中間解析の結果、想定をはるかに超える効き目の違いが観察された」ことによる試験終了と同様、解釈としては「想像を超えるほどの成功」ということになる。
この研究の“大成功”によって「普通の人間でも役割を与えられると邪悪になれる」とか、「当該の役割が与えられるとその人らしさが減り“没個性”化がみられる」といった心理学としての新たな仮説が検証されたというわけである。
スタンフォードの監獄実験 ~後日談~
よく知られているお話はここまでであり、あまりに有名であることから大抵の心理学(主には社会心理学)の入門書では必ずといってよい程に紹介されているし、書籍を購入しなくてもwikipedia*等、インターネット検索でも調べることが出来る。2015年には映画化さえされている(邦題「プリズン・エクスペリメント」)。重要なのはむしろ後日談である。どうやら参考書に掲載されているこの研究の概略と、実際に行われた研究の実態がかなり食い違っているというのである。
以降はブルグマンの著書「Humankind(日本語版タイトル「希望の歴史」)」からの引用である。何せ世界一有名な心理学実験であり、企画者であるジンバルド氏はその後、アメリカ心理学会の会長にまでなった権力者である。お気楽に批判できる相手でもなさそうで、ブルグマン氏の勇気と綿密な下調べに敬意を払いたい。
この著書によればまずはジンバルドが率先して看守役の学生に対して囚人役の学生の精神に苦痛を来すよう、看守長として振る舞った。研究の基本として「こうあって欲しい」という研究企画者がこのように直接的に介入するのは著しく中立性に欠く、ご法度である。そもそも企画案は当時学生であったジャッフェ氏のもので、そのサディスティックなアイデアを持ち込むために、彼には研究助手として参加させている。足首に鎖をつけるのも、囚人を裸にするのも、15分間、裸のまま立たせるのもジャッフェのアイデアである。
囚人役の1人が叫んだ「(前略)ここは最悪だ。もう一晩も耐えられない。うんざりだ!」というセリフはこの実験の中でもクライマックスとなり最も有名なものである。しかしながらそれは後に心理学で博士号をとったコルビ氏による“やらせ”である。テスト勉強などが気になった彼は、囚人役の残り数日間をキャンセルしたくなり、精神に支障をきたさないと実験から離脱できない取り決めだったため、そのような演技をしたのだと述懐している。
こうした背景がありながら、ジンバルドは以降の数え切れないほどのインタビューの中で、あくまで自分は看守たちには指示などしておらず、彼らがサディスティックな振る舞いをしたことが自分には当初全く想像出来なかった、と“ウソ”の説明をしている。囚人に課したルールも罰則も屈辱的行為もすべて看守役の学生たちが自ら考え出したのだと。
この実験から何年も経って、ようやくこの研究企画が実際どのようなものであったのか、研究の記録を確認したのは、ドキュメンタリー映画を作ろうとしたフランスの社会学者ル・テクシエが最初である。これが“やらせ”であったことを知った彼は愕然としたという。その後、心理学者ハスラムとライヒャーによるBBC(イギリス放送協会)での再実験はTVでも放映されたそうだが、学生ら~看守役も囚人役も~の談笑など、何も起こらないという意味での“放送事故”的な番組は大変、退屈なものであったそうである。
幻覚症状?!
私の友人で高熱を出すとかならず幻覚症状が現れるという人がいる。娘さんも同じらしく、熱が出ると実在もしないものをよく見るという。種々の精神疾患では幻覚とまではいかなくても幻聴、つまり実際には出ていない音が聞こえるということは珍しくないとも言われている。
スタンフォードの監獄実験を企画したジンバルドは、果たしてどうであったのだろうか。研究を企画する人は必ずといってよいほど「仮説が証明されて欲しい」あるいは「仮説が間違いであったと証明されて欲しい」といった動機があり、その情熱が過度になると、優れた科学者であってもそちらの方向へ無意識のうちに、観察ないし言動がシフトしてしまうことがどうやらありそうである。
かの野口英世を一躍有名にさせたのは黄熱病等の病原体を突き止めた研究成果にあるのだが、現代科学においてはその病原体であるウィルスはあまりにも小さく、野口の生前の科学技術では決して見ることが出来なかったハズであることが知られている。果たして野口がみたものとは何であったのか。
疫学分野においても、現代ではキノホルム製剤によることが知られているスモンなる副作用については、当時「原因となるウィルスが特定された」旨の研究結果が大手新聞の一面を飾った。これにて“感染症”とされたスモン発症者は、歩けない、目が見えない、といった苦痛に加え、家族から引き離され、縁談は破断し、自死する人が激増した。現代におけるコロナによる死亡と同様、その葬式に人は足を運ばなくなったと聞くが、“感染症”ならば仕方あるまい。実在しないその“スモンウィルス”を発見したとした研究者らが見たものは何だったのだろうか。「信念の保守主義」というパワーの大きさを思い知らされる。
確実に言えることは精神疾患の患者さんでなくても、たとえ優秀な研究者であっても「そうあって欲しい」という“熱病”に侵されてしまうと、研究の結果からどうやら“幻覚”を見てしまう恐れがあるということだ。それどころか、研究参加者らにとっても、研究企画者の意図を汲んで「きっと、こうして欲しいのだろうな」という意図・思惑が生じ、ありもしない法則性を研究結果として“成就”させてしまうことが有り得るのだ(要求特性*)。
私は心理学系の学会にも時折お邪魔するのだが、そこで発表される研究の多くは同じ心理学教室・ゼミの学生が被験者となっていることも多い。確かに実験をするうえで友人を使うのは手っ取り早くて敷居が低いのだろうが、このような友人関係があること、また「心理学の知識に長けている特殊な人たち」が心理学実験に参加していると仮に研究目的を伝えていなくても、友人がデザインした研究の結果について「このような研究結果になると嬉しいのだろうな」という予測は容易に出来てしまう可能性がある。こうしたことを研究の限界として自覚している研究者ばかりではないことが心配だ。
利益相反の開示
生身の人間はアンドロイドではなく、どうにも「こうあって欲しい」という“熱病”と無縁ではない。今どきのマトモな科学ジャーナルでは利益相反(conflict of interest、COI)を開示することが義務付けられているが、その“熱病”の疑いを読み手の方でも留意せよということでもある。実際のところ、研究の実施にお金を出した人や組織に対して、仮にその思惑と裏腹な研究結果が得られたとしても「仮説通りではなかったものの・・・」といった論調で“フォロー”する考察が大抵、加えられがちである。それは人間らしさ、思いやりではあっても科学としては望ましいものではないだろう。
私は科学の“信者”であり、何事においても科学的でありたいと思っている。正直に言えば、何ら根拠もなく「神を信じなさい」とか「お祈りしなさい」といった宗教を、何故にこれほどまで多くの人たちがそれを信じられるのか理解することが出来ない。しかしながらその一方で、常に中立性を保ち、クールな視点で研究結果を受け止め論じることが出来ると言い切れるだろうか。今回みてきた通り、世界的に著名な幾多の科学者ですら、その実践は困難であり、故にもし「私は大丈夫です」とするならば、恐らくそれは過信でしかないだろう。
私の寝室にお菓子の箱が置いてある。箱の側面に書かれている「うすしお味」というのが、徳島からコロナを持ち帰って寝込んでいたら、「うずしお(渦潮)味」に見えて仕方なかった。「うずしお味」なんてあるハズもない、と思いながら意外と美味しそうな響きである。野口英世がみた黄熱病ウィルスも、ひょっとしたらそんな他愛もない熱病の中の“幻覚”であっただろうか。もう熱病にはウンザリだ。
第24回おわり。第25回につづく
*ウィキペディア「スタンフォード監獄実験」
*要求特性
被験者が実験のねらい(要求)を推測してそれに合う行動をとろうとすること
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